2011年12月26日 准遭難について
2011年12月26日(月)午後6時過ぎ。東京都心では何でもないいつもの夕方を迎えようとしていた。年末を控え職場では最後の一踏ん張りをする者もいれば、すでに年末の締めを終えて来たる正月に備えている者もいる。そろそろ小腹が空くころで今日の夕飯は何にしようかなんて考えている頃だろう。
そんな日常的な夕方の時間、私は北アルプスの山の中で死ぬような思いをしていた。胸まで積もった雪をラッセルしながら進んでいたのである。しかも進めば進むほど斜面がきつくなり体力も限界が見え始めていた。戻るにしても時間的に麓まで行くことは不可能。どこかでビパークしなければならない。やがて周囲が暗くなり始め最終的には樹林帯ということもあり真っ暗闇になってしまった。ヘッドライトと補助で持っていたフラッシュライトだけが頼り。ついに体力が底をつき雪洞を作ってビパークすることを考え始めていた。
一体なぜこのようなことになってしまったのか。
初めての冬山
話は1ヶ月前の2011年11月にさかのぼる。
私は冬山登山を始めてみようと思い情報を集めていた。必要な装備などは雑誌やインターネットで勉強して実際に買い揃えて行ったのだが肝心な冬山デビューをどこでするか悩んでいた。結局候補にあげたのは赤岳鉱泉に宿泊して硫黄岳か西穂山荘に宿泊して西穂高岳独標のどちらかであった。難易度的には硫黄岳の方が優しかったのだが、無雪期に登った北穂高岳や涸沢の壮大さが頭から離れず、冬山デビューは西穂高岳独標にすることとした。
新宿発高山行きの濃飛バスを予約。朝7時の始発便に乗り込むと、始めての冬山に期待を寄せる。不安というものは全くなく早く買ったばかりのアイゼンやピッケルを使ってみたいということばかり考えていた。アイゼンやピッケルを使って独標に登頂する自分を思い描いて一人で興奮してる姿ははたから見れば変な人に見えていたかもしれない。
やがてバスは中央高速道路を走る。徐々に山梨県の山並みが見えてくるとテンションは一層上がってくる。普段無雪期の穂高に行くときは夜行バスを使うので高速道路上では就寝していて景色の変化はあまり感じない。だが今日は車窓から見る景色が何だか新鮮に見えてくる。
諏訪湖サービスエリアでの休憩を終え、しばらく先の岡谷ジャンクションで長野道へ分岐する。長野道をしばらく走り松本に近づいてくると北アルプスの山並みが見えてきた。「山が白くなっている!写真で見た通りだ!」込み上げてくる感情を抑えるのが大変であった。
バスは松本インターで高速道路を降りて県道を走っていく。山岳道路を走り釜トンネル入口まで来た。普段はトンネルへ直進するが今回は安房トンネル方面へ曲がっていく。安房トンネルを抜けてバスは平湯温泉の停留所に止まる。ここで下車して今度はローカルバスに乗り換えた。タイヤチェーンをつけたローカルバスはガタガタ言いながら途中地元の生活道路を走りつつ新穂高ロープウェイ乗り場に到着した。
当時の新穂高ロープウェイ。当時はここまでバスは入ってこれず、少し下の登山センターに停留所があった。
チケットを購入して第一、第二ロープウェイと乗り継ぎ終点の新穂高口駅に到着。外へ出るとそこは雪の世界だった。11月28日の時点ではさほど積雪はなかったのだが当時は積もった雪を見て鼻血が出そうなほど興奮したものである。
しばらくはアイゼンなしで歩いていたのだが、思ったより滑るのですぐにアイゼンを履いた。雪の上をアイゼンを履いて歩く感覚は新鮮でとても気持ちが良かった。夏山では決して味わえない感覚である。
1時間ちょっとで西穂山荘に到着する。名物の西穂ラーメンを食べ、少し休憩したのち稜線へ登っていく。山荘裏手の丘を登ると独標やピラミッドピークが視界に飛び込んできた。この時はまだ雪が少なく、白い峰というには程遠い状態であったが部分的に白くなった峰々を見上げて感激した。初日はあまり天候が良くなかったこともあり、丸山まで登ってすぐに山荘へ引き返してきた。
翌朝、独標まで目指して登り始めた。まだまだ雪は少なく岩がむき出しになっている場所が多かったのを覚えている。独標直下まで来ると最後の部分は穂高らしい岩峰の登りとなり緊張しながら登り始める。慣れないアイゼンをガリガリさせながら、そして進行方向を確認しつつゆっくり登って行った。いざ独標に登頂して景色を見ると奥穂高岳から吊尾根を経て前穂高岳に至る稜線が綺麗に着雪しており感激する。ちょうど空も晴れてきて「白い峰と青い空」の絵に描いたような景色を見ることができたのである。
この時思ったのは「何でもっと早く冬山を始めなかったんだろう」ということだった。そして次回はもっと積雪してから来てみようと心に決めていたのだった。
初めての冬山登山が大成功であったため、迷うことなく2回目の冬山計画を立てていた。行き先はもちろん同じ西穂高岳独標。そして選んだ日が冒頭で述べた2011年12月26日だったのである。
2011年11月29日、独標から吊尾根・前穂高岳方面を望む
2回目の冬山そして登るという決断
厳冬期の穂高連邦は寒気が入ってくると気圧配置によっては大雪をもたらすことがある。吹き溜まりではあっという間に人の背丈まで積もってしまうことも珍しくない。とりわけ森林限界より下の樹林帯は風も強くなくそのまま着雪するため一度大雪が降るとかなりの積雪となるものである。
初めての冬山登山はもちろん大成功だったわけだが、やはり11月下旬ということもあり雪の量が少なかったというのは正直感じていた。だから2回目の冬山登山の時にはもう少し雪が積もって本格的な冬山になっていることを期待していた。そんなわけだから予定していた12月26日の前日までに寒気の影響で大雪になっているという情報を聞いたときは「よし!雪が積もったぞ!」と喜んでいたのである。自分の中では辺り一面真っ白な世界を想像していたのだが、それがどんなに恐ろしく大変なことであるかという認識はこの時点では全くなかった。
当日の行程は前回と同じ。高速バスからローカルバスに乗り継ぎロープウェイで登山口まで登る。ところが今回はロープウェイの切符売り場で係りの人が私の装備を見て「お客さん、今日登られるのですか」と聞いてきた。もちろんそのつもりで来ているわけだし、この人は一体何を言っているのだろうと思いつつ「はいそうです」と返答した。「ええ!その装備で登るんですか?やめたほうがいいですよ」。想定外の返答に言葉を失った。間髪入れず係員が質問してくる。「ワカン持っているんですか?」。ワカンという装備があることはもちろん知っていた。だが当時の私の認識は、ワカンというのは平坦なスノーフィールドを歩く時に使う道具だという程度のものだったため、岩の稜線を歩くには必要がないと勝手に思い込んでいた。だからワカンを持っているのかという質問がイマイチピンと来なかった。
係員は今日は大雪の後でラッセルになるのでワカンがないとまず山荘までたどり着けないということを力説してきた。時間もすでに午後1時ごろであり今日は登るような状況ではないと説明する。結局「少し様子を見て判断します」と言い切りチケットを買いロープウェイに乗って終点まで登って行ったのである。
ロープウェイの終点まで到着し外へ出てみると、前回来た時とはまるで様子が違っていた。とにかく雪の量が多い。1ヶ月足らずでこんなにも違うのかとびっくりする。実際はしばらく続いた大雪により一気に積雪したのだが。
ロープウェイの終点は観光客が楽しめるように簡単な散策路ができている。ロープウェイに乗っている途中、散策路から一歩外は大変危険なので登山装備をしていない方は散策路の外に出ないように警告される。そういうアナウンスを聞くとかえって優越感に浸ってしまう自分がいる。自分は観光ではなく登山なんだと。散策路は観光客が歩きやすいように整備されているので普通に歩くことができる。なので足早に散策路を抜けて純粋な登山道に向かう。
当然ながら登山道に入ると未整備で雪は腰のあたりまで積もっていた。だが、ロープウェイの係員の説明とは異なりトレースがついていた。「なんだそんなに大変ではないじゃないか、これならちょっと頑張れば山荘に到着できる」そう思い、もはや引き返すことは全く頭になかった。ところがこのトレースこそが准遭難を決定づける落とし穴だったのである。
散策路が終わって登山道に入った直後のこと、登山者が一人下山してきた。最初は山荘から下山してきたのかと思ったが、「いや〜今日はダメだ、進めない」と一言。想定外の積雪のため、すぐそこで引き返してきたのだという。今思えばこの時引き返せば良かったのだが、その時は休暇を申請して計画した冬山なのだから多少無理でも山荘までは行きたいという思いが強かった。そしてまだこの時は大雪直後の山の恐ろしさを身にしみて理解していなかったのだ。「大丈夫だろう、何とかなる。時間かけてゆっくり進んでいけばいい。前回は1時間で山荘に着いたので、2、3時間もあれば十分たどり着けるだろう」という軽い見方であった。
登山者とすれ違った後はトレースを追って進んで行った。トレースといっても腰近くまで沈んでしまう深さであった。ロープウェイから西穂山荘のルートは尾根を通っていく。ロープウェイ終点があるのは小高い丘の上なので登山道の出だしは下り坂から始まる。だから出だしは惰性もあって比較的順調に進むことができた。先ほどすれ違った登山者は「すぐそこで引き返した」といっていたのだが、トレースはまだまだ先まで続いている。なので他にも先行者がいて西穂山荘までトレースがあるんだと勝手に思い込んでしまった。そして、今日は大変だが西穂山荘まで登るという結論を下してしまったのである。
大雪が降った後の西穂山荘への登山道。トレースが山荘まで付いていると信じていた。
トレースの真実
トレースがあるとはいえ一人分のトレースだけなので、ラッセルの先頭よりはマシというレベルであった。やはり登り部分はきつく感じる。それでもまだ山荘までトレースがあると信じていたので、倍くらい時間はかかるだろうが山荘にはたどり着けると思っていた。まだ写真を撮る余裕があった。
前回からカメラを変えた。今までは携帯電話のカメラで写真を撮っていたのだが、その後コンパクトデジタルカメラを購入した。ところが一度暴風雨にさらされ、見事に壊れてしまったので、山の雑誌の広告で紹介された水中撮影も可能な頑丈なコンパクトデジタルカメラを購入して冬山に備えたのである。初めての冬山ではこのカメラが大活躍。たくさんの画像を収めることができた。なので今回も美しい冬山を予想してたくさんの写真を撮ろうと準備してきたのである。最初は予想以上に積もった雪などをカメラに収めていったが、あまりの雪の深さに進むのに精一杯でだんだん写真を撮る回数が減っていった。
どれぐらい進んだ頃だろうか。先行者が見えてきた。登山では人によりペースが異なるので途中で追いついたり抜かれたりというのは日常茶飯事である。だが前を進んでいる登山者は明らかに進みが遅い。そしてその先を見てハッと我に返る。ない。何もない。トレースがないのである。
この瞬間、全てを察した。大雪直後で誰も登っていないのだということ。つまり、ここまで自分が追ってきたトレースは今自分がいるところまでしかなく、そこから先は雪をかき分けていかなければならないんだという事実。トレースを追っていくだけでもかなり体力を消耗している。だがここから先はトレースすらない過酷な状況なのだ。ちらっと手元の時計を見る。時刻は15時48分だった。
決意
新穂高ロープウェイの最終便は冬季は16時15分である。この後は泣いても笑っても翌朝まで動かない。つまり今日の登山は諦めて下山するのであればこの時間までにロープウェイ乗り場まで戻らなければならないのである。
もはや最終便に間に合うように戻れるような場所ではなかった。選択肢はなかった。なお、この時はなぜか最終便が16時45分だと勘違いしていて今すぐ戻れば最終便に間に合うと思っており、戻るということも選択肢にあった。だが相当先まで進んでいるのでなんとか山荘までたどり着けるだろうという思いが強く引き返すという選択はしなかった。結果的には引き返してもロープウェイの営業時間外の到着となり、駅構内で夜を過ごすことになっていたのだが。しかも後でわかるのだが、自分の中では相当先まで進んでいたと思っていたのだが実際はまだ手前の方にいたのである。
先行者に近づいていく。先行者は必死になってラッセルしていた。体で雪を崩し、足で踏み固めて、を繰り返して少しずつ進んでいる。しばらく様子を見る。だいぶ疲れている様子である。それもそのはず、ここまでずっと一人でラッセルしてきたのだから。程なくして先行者は後ろから一人きたということに気づく。
「交代しましょうか」「お願いします」交わした言葉はそれだけだった。いやそれ以上の言葉は必要なかった。そして生まれて初めてのラッセルに取り掛かる。これまでにもラッセルで苦労したといった体験談は数多く読んできた。だが実際に目の前に立ちはだかる雪と格闘を始めると、こんなにも辛いものなのかということが身にしみて感じられた。とにかく前に進めない。足を一歩前に踏み出せない。もがいても動かない。自分の中でイメージしていたラッセルが一気に覆された。
ロープウェイから山荘までの登山道で一箇所周囲よりも激しく吹き溜まる場所があるのだが、この日は自分の背丈を越える高さの雪が積もっていた。道を間違えたのかと疑ったのだが、山荘が設置した目印の旗が立てられていたため進行方向は間違えない。周囲を入念に見渡したのだが結局進むしかないため雪壁を崩しながら進むことにした。体当たりして体をめり込ませ崩れた雪を足で踏んでの繰り返し。最終的には絶望感が出てくる。やっとの思いで雪壁を超えて先のルートが見えてきた時には安堵感もさることながら、どっと疲れが出てきた。
周囲が暗くなってきた。手元の時計を見る。17時前である。予約を入れてあるため流石に山荘も心配するだろうと思い一度西穂山荘に連絡を入れることにする。携帯電話の電波が入るのが唯一の救いであった。「今晩宿泊を予約していた者ですが予想以上に雪が深くて到着に時間がかかりそうです」。山荘の返事はもはや記憶にないのだが、現在地、ルートは確保できているか、何かあったら必ず連絡を入れるようにといったやり取りをしたように記憶している。しばらくすると樹林帯ということもあり一気に暗くなってきた。ここでヘッドライトを装着する。だがここからが本当の地獄の始まりだったのである。
准遭難
今日は天候に恵まれ予定した独標を超えてピラミッドピークまで登ってきた。それにしても良い天気である。遠くは八ヶ岳、反対側は白山まで綺麗に見える。麓に目をやると奥飛騨温泉郷が見える。手前に目を移すとロープウェイの終点が小さく見てている。そしてロープウェイから山荘までの道筋がよくわかる。最初は尾根沿いに下っていき、ちょっとした上り下りを繰り返した後、山荘に向けて急斜面を登っていく。改めて見るとこの最後の急斜面は大変だなというのがよくわかる。斜度的には第4峰の急斜面と変わらないように見える。ピラミッドピークに登頂して山荘までの登山道を眺めていると、ふと何年か前のラッセルが思い出されてくる。今や「思い出」と言えるまでになったのがだ当時は死ぬような思いをしたんだよな、なんて。
ただでさえ登るのに体力を消耗する山荘直下の急登。これに胸あたりまで積もった雪のラッセルが加わるのだから想像を絶する疲労感である。周囲は完全に暗くなりヘッドライトだけが頼りだった。しかもルートが判別できず、山荘が立てた旗が頼りであった。旗まで近づいていき次の旗がどこにあるか確認する。確認できたらその方向に向かってラッセルしていく。だが真っ暗になるとヘッドライトの光では不十分だった。次なる旗がわからずずっとキョロキョロしていたのだが光が届かずわからない。
困っていたところに、ちょうど予備でフラッシュライトを持ってきているのを思い出した。SURE FIRE というフラッシュライトは主に米軍で制式作用されているライトで軍規格であるため過酷な条件下でも問題なく機能する。ジュラルミン削り出しで重いのだが、その信頼性のために予備で持ってきていた。しかもより照射能力の高い(ただし使用時間は短くなるが)電球に変えてあったのだ。
早速フラッシュライトを照らす。驚くほどの光量でヘッドライトよりもはるか先まで鮮明に見えるようになった。だが視界が確保できたとしても体力が持たない。交代でラッセルしていたもう一人の登山者はすでに体力的に限界を超えていて後ろからついてくるのがやっとであった。そして私も限界に近づいていた。一歩進んで2、3分休んでといった状態だった。手元の時計を見て見る。
午後6時過ぎ。東京都心では何でもないいつもの夕方を迎えようとしていた。年末を控え職場では最後の一踏ん張りをする者もいれば、すでに年末の締めを終えて来たる正月に備えている者もいる。そろそろ小腹が空くころで今日の夕飯は何にしようかなんて考えている頃だろう。
そんな日常的な夕方の時間、私は北アルプスの山の中で死ぬような思いをしていた。胸まで積もった雪をラッセルしながら進んでいたのである。しかも進めば進むほど斜面がきつくなり体力も限界が見え始めていた。
同じ午後6時でも東京都心と北アルプスの山の中ではここまで違うんだな。こんな山の中では何もない、何もない状態にさらされているからこそ、都心というのがいかに生活するには恵まれているのかというのが改めてわかるような気がするなどと考えていた。
ふと周囲が暗くなった。いよいよ終わりか・・・疲労凍死まであと少しか・・・。人はこうやって遭難死していくのだな、などと考えたがよく見るとフラッシュライトの先端に雪がついていてフィルターのようになってしまっていた。雪を取り除くと再び明るい視界が戻ってきた。
どれくらい時間が経ったのだろうか、突然目印の旗がなくなった。いくら探しても遠くを見ても旗が見えない。間違えたのかと思って少し戻ってみたがどこにも見当たらない。ここに来て遭難かと本気で考えるようになった。完全にルートを見失ったのである。実際は想定外の積雪量のため、旗は積もった雪の中にあったのである。
ここで再度携帯電話を取り出す。気づかなかったのだが西穂山荘から着信履歴があった。山荘に電話をしようとするが番号のボタンが凍っていて押すことができない。上の方にあるファンクションキーと発信ボタンはかろうじて機能していたので着信履歴から選択して発信する。未だ山荘に向かってラッセルを続けていること、目印の旗がなく前回登った感覚で山荘を目指していること伝える。
捜索隊の出動そして確保
山荘への登山道は最終部分はかなりの角度になる。ラッセルしながら進んでいく中でこの最終部分に取り掛かる。だがすでに体力は限界。ここにきてついにビパークをすることを視野に入れ始めた。スコップやテント、シェラフ、調理器具など最低限のものは持っているので後は適当な場所がないか探すことにした。もう一人の登山者もビパークを同意した。
ふと見覚えのあるものが視界に入った。建物の一部分のようなものである。西穂山荘裏手には夏季に医療スタッフが駐在する建物があり、その建物の一部のように見えたのだ。「ああ、到着した! あれは山荘の別棟だ!」と大喜びした。だがもう一人の登山者は怪訝そうな表情をして「違うんじゃないですか・・・」と一言。おそらく寒さと疲労で幻覚が見えているのではないかと思われていたであろう。もちろんそれは別棟ではなく木がせり出しているだけであった。だがそれが別棟に見えたということはもしかしたら本当に危ない状態だったのかもしれない。
よく遭難した人は時間が経つにつれて幻聴、幻覚、幻視などに襲われると言われている。遭難記録などを読んでみても「人の声が聞こえてきた」「人が歩いているように見えた」「ヘリコプターの音が聞こえてきた」といった証言が数多く見られる。極限の疲労状態、氷点下二桁台の厳寒状態、絶望感など様々な要因がもしかしたら山荘の別棟という幻視を誘発したのかもしれない。何れにしても幻から覚めた後の現実はつらいものがあった。別棟と勘違いした倒木の部分から先は山荘までの道のりの中で一番急登になる部分である。「まだ登らなければいけないのか」と絶望にかられた。到着したと思って力が湧いてきたものの今度は一気に疲れがどっと押し寄せてきた。もう足も動かない。息も上がっていて苦しくなっていた。
すっかり意気消沈たその時である。先に気づいたのはもう一人の登山者の方だった。上の方から「お〜い」という声とともにライトが照らされていた。救助だ!山荘から捜索隊が出動したのだ。二人して大声で「お〜い」と返答し、私はフラッシュライトを声が聞こえてくる方に向けて照らす。「大丈夫ですか〜」「無事で〜す」というやりとりをする。今度は幻視ではない。幻覚でも幻聴でもない。紛れもなく現実である。声が徐々に大きくなってくる。先方のライトが近づいてくる。足音が聞こえてくる。捜索隊の姿が見えてくる。
20時30分、捜索隊と合流。
捜索隊は私たちの体温の低下を心配し暖かい飲み物を差し出してくださる。この時のホットカルピスの味は今でも忘れない。荷物を持ってもらう。健康状態に異常がないことを確認し、「トレースをつけていますので辿ってください」と言われ、一緒に山荘まで登っていった。
21時すぎ、西穂山荘到着。
山荘には他の宿泊者も心配して待機していた。「申し訳ありませんでした」まずはお詫びをする。捜索隊であり山荘スタッフでもある皆様は責任を追求するような話はせず、終始暖かな言葉をくださった。簡単な顛末を説明し、カレーを作っていただいたのでありがたく頂戴した。「今日はすぐに就寝してください。明日のチェックアウトは8時30分ですが、時間を過ぎても大丈夫です。具合が悪くなったら言ってください」。そしてその後のことはあまりよく覚えていない。きっと安心感からすぐに寝落ちてしまったのだろう。
翌朝は反省も兼ねて稜線に出ずに下山することにした。空は厳冬期定番の鉛色の雪空だったが、下りていくうちに薄日さすようになっていた。昨日は真っ暗で見えなかった雪の樹林帯の美しい光景を見ることができた。先に宿泊していた登山者が一斉に下山していたため、帰りは確実なトレースがついていた。下山する際、よくこんなところ登ってきたな、と自分でも感心してしまった。
後日撮影した別棟と勘違いした倒木。このすぐ後に捜索隊と合流した。
原因を考える
ピラミッドピークに登頂して周囲を見渡した後、今日はパウダーが乗っていて足元が若干不安定なのでここで引き返すことにした。ひき返す前にもう一度ロープウェイ終点から山荘までの尾根道を見ておく。やはり山荘直前は急登だ。あんなところを胸まで積もった雪をラッセルするなど無謀なことをしたものだ、無知というのは恐ろしいものだと改めて実感する。第9峰、第10峰の難所を越えて独標まで戻り、さらに山荘まで下山していく。
西穂山荘に戻り軽食をいただき少しくつろぐ。ふと数年前の准遭難のことが記憶によみがえってきた。「結局あの時の原因はなんだったんだろうか」
やはり無知・経験不足というのが主たるものだろう。ラッセルで大変な苦労をするので今日はやめたほうが良いということは複数の要因から周知されていた。ロープウェイの係員、登山開始直後に引き返してきた登山者など。もし、胸まで積もった雪のラッセルがどれほど大変なものか理解していたなら、気象情報も含めこれらの情報から「撤退」という正しい判断をしていたことだろう。だが話には聞いていたが実際にラッセルの過酷さを体験していないため、軽く見ていたのである。まるで水をかき分けて行くかのように簡単に進んでいけるものだと錯覚していたのであった。漫画やドラマを否定するつもりはないが、主人公はいとも簡単に胸まで積もった雪をラッセルしながら進んで行く。だが現実は漫画やドラマのようには行かない。もちろんプロフェッショナルな方はラッセルしながらどんどん進んでいけるのかもしれないが少なくとも雪山2回目の経験のない私には到底無理な話であった。
降雪直後であるのにワカンを持って行かなかったというのも致命的なミスである。西穂高の稜線にワカンはいらないという誠勝手な勘違いをしていたので、そもそも冬山登山の初期装備に入れていなかったのだ。今考えれば本当にお粗末な話である。准遭難した当時、下山してすぐに登山用品店へすっ飛んで行ってワカンを購入したのは言うまでもない。今は当然のようにワカンを持って行っている。
西穂山荘でくつろぎながらそんな過去の過ちを思い出していた。あれから5年。冬の西穂高は今日も変わることなく崇高な姿をしている。西穂高岳山頂にも4、5回は登頂した。だが、まだまだ経験が足りないと思っている。いや、登れば登るほどそのように感じる。やはり冬山は奥が深い。それだけにその魅力にどんどんとりつかれて行くような気がする。
5年前、夜9時過ぎの西穂山荘別館レストハウスでひたすら頭を下げて謝る自分が脳裏に浮かんでくる。今はその同じレストハウスでカレーを食べてくつろいでいる。失礼な話ではあるが何だか笑いがこみ上げてきてしまう。西穂高岳の雄大な稜線がそうさせているのだろうか。
山は黙って私たち登山者を見つめていた。
後記
2011年12月20日ごろから日本列島は記録的な寒波に見舞われた。各地で大雪により混乱状態に陥っていることが報道され、豪雪地帯の厳しさを日本中が実感していた。北アルプス穂高連邦では記録的な豪雪とまではならなかったが、一気に降り続いた雪により樹林帯では胸近くまで積雪していた。2011年12月26日には降り続いた雪はやみ、新穂高ロープウェイも通常運行していたため登山者は入山できる状態であった。
一方西穂山荘に宿泊した登山者で12月26日に下山をした人はいなかった。恐らく積雪の状態から下山を見合わせたのだろう。
本文中でも触れたが准遭難の原因は明らかに冬山に対する認識・経験の無さが災いした結果である。この准遭難を期に冬山登山に対する自分の認識は大きく変わったと思っている。冬の西穂高岳にアタックするのはもう20回近くなるかもしれない。それでも毎回毎回慎重さを失わないように気をつけている。なぜなら冬山に絶対はないからである。天候、雪質などどんなコンディションになるかわからない。突然天候が悪化するかもしれない。突然アイスバーンが現れるかもしれない。そんな時にどうしたら良いか。常に雪山に対するリスクマネジメントをしなければならない。事故が起きてからでは遅い。重要なのは危険を予知して重大事故を未然に防ぐことである。山荘では冬山の危険性について常に具体的な情報を発信している。こういった貴重な情報を常に取り入れることが重要である。
また各メディアでは冬山の危険性について更なる啓発をしていただきたいと願うばかりである。最近、軽アイゼンで西穂独標に登りその後下山できなくてパニックになっている人の下山補助をした。言語の関係で詳しい状況はわからなかったが、あくまでも観光地の一つといった認識でいたように思われる。冬の西穂高岳は観光名所とはほど遠い危険と隣り合わせの山岳地帯であり、単に綺麗な雪山を見られるといった種類のものではないんだということをもっと啓発していただきたい。
最後になるがきちんとした装備や知識、経験を積んだ上で登る西穂高岳は最高である。天候に恵まれ白い峰と青い空が見られると、もうそれだけで穂高の魅力にとりつかれてしまうことは間違いないであろう。冬季西穂高岳や各峰に挑まれる方においては正しい手順で挑戦し、良い思い出を残していっていただきたいと願う。
西穂高岳山頂よりジャンダルム方面を望む。